HOME >  金沢城-幕藩体制を象徴した堅城

石川県 金沢紹介

 
日本海のほぼ中央部に位置して、能登半島の北端から白山周辺の南端まで南北約200kmの細長い県。
令制国でいう加賀国と能登国であり県庁所在地は金沢市。日本海式気候であり冬には豪雪となる。

略史

加賀国では、応仁の乱のころ浄土真宗が広まり、やがて農民らによる一向一揆が守護の富樫政親を破り、武士の支配を脱却した統治が約100年にわたって行われた。これが、「百姓の持ちたる国」と呼ばれた所以である。戦国時代、本願寺と敵対する織田信長は、柴田勝家らを派遣してここを平定し、能登を前田利家に、加賀を佐久間盛政に与えた。信長の死後、賤ヶ岳の戦いで勝利した豊臣秀吉が実権を握ると、前田利家は加賀も領して、金沢にを居城とした。

能登国では、正長年間(1428 - 1429年)頃に初代当主畠山満慶が七尾城を築城し、畠山氏の領国支配の拠点となる。1577年(天正5年)、上杉謙信が能登国へ侵攻し七尾城の戦いが起こり、畠山氏は滅亡する。

関ヶ原の戦いで家康についた利家の息子、利長は越中全域も含め、約120万石を領する大大名となった。前田家は産業・工芸の保護・振興に力を入れ、城下町金沢は江戸中頃には人口で日本4位の都市へと発展した。

江戸時代に置かれた藩は加賀藩と支藩の大聖寺藩があり、城代の置かれたものに小松城がある。
 
 明治二年(1889)六月、各藩主が土地(野と人民)を朝廷に返上するという、いわゆる版籍奉還がおこなわれた。これによって藩主の籍は東京に移されたが、実際は藩主を藩知事として政府の地方官の形式をとったにすぎず、依然として金沢薄・大聖寺藩という旧藩籍がそのまま地方行政の区画であった。
 このように、実質的には藩制時代とほとんど変わりはく、明治維新の実効果はほとんどあがらなかった。そこで二年後の明治四年七月、大久保利通・木戸孝允らが中心となり、薩摩・長州・土佐三洋の勢力を背景にして断行されたのが廃藩置県である。
これによって藩が廃され、金沢藩は金沢県に、大聖寺藩は大聖寺県になった。
 同年11月20日に両県を廃止し、旧金沢県より射水郡以外の越中国新川郡、婦負郡、礪波郡を分けて新川県を設置、能登国と越中国射水郡に七尾県を、加賀地方に金沢県を置いた。明けて1872年2月2日、金沢県庁を石川郡美川町に移し、この郡名より石川県と改称した。現在の県名はこれに由来する。
 
伝統工芸
 
加賀藩が江戸時代に陶芸工芸を奨励保護したため高度にその技術は発達した。
九谷焼や輪島塗、金沢漆器など日本を代表する陶工芸品がこの地で生まれた。
その技術は今でも受け継がれ、多数の人間国宝を輩出している。
金沢市では金箔の生産が盛んであり、金箔の国内シェアの98%以上を占めている。
 
石川県は太平洋戦争時では空襲を受けることなく、地震などの大きな災害に遭ったことがないことから、日本3名園のひとつ「兼六園」をはじめ、藩政期の面影をとどめた美しい街並みなど、数多くの貴重な文化財が残されています。
また、県内には有数の温泉地があり、それらの観光資源を生かして旅行客の集客に努めています。
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