HOME > 金沢城-幕藩体制を象徴した堅城

繰り返された石垣改修


 天下泰平の時代となり、幕藩体制が安定期を迎えると、諸藩にとって壮大な城は膨大な維持管理費がかかる金食い虫のような存在となった。しかも城は都市の中心に位置する以上、火災の延焼の確率も高く、また地震、洪水、落雷といった天才による被害は避けがたかった。
 元和六年失火によって本丸の御殿や櫓が炎上。このころは、まだ日本全休が右肩上がりの経済状態だったこともあり、金沢城は火災から復旧されただけにとどまらず、本丸の拡張工事が行われている。
 寛永八年(一六一二一)には、城下からの失火が本丸にまで燃え移り、城内の主要部分を失った。この時も財政に余裕があったことから、二の丸と三の丸が拡張され、天守は存在しないものの、金沢城は最盛期を迎えた。
 宝暦九年(一七五九)には、城下からの延焼により、城内の建物の大半が焼き尽くされた。江戸時代後期になると、金沢藩は慢性的な財政赤字に悩まされており、宝暦の大火は泣きっ面に蜂の状態となる。それでも加賀百二十万石の体面を守るためには、再建せざるをえず、商人からの借金や献金などによって凌いでいる。
 度重なる火災と二度の地震により、前田家は、何度も金沢城の補修を余儀なくされた。そのため、金沢城では、初代利家が造営を命じた文禄年間から、幕末に至るまで、さまざまな時代の石垣が共存する形で今日に伝えられている。ほかの城でも災害や経年劣化により石垣の修復は繰り返されたが、金沢城のように大規模でしかも積み方が異なるという例は少ない。


 体面維持のため城の補修に巨費を投じ財政を悪化させる。このような流れは、幕藩体制が幕末の動乱期を迎え方向性を失って崩壊する過程を象徴している。