HOME > 金沢城-幕藩体制を象徴した堅城

金沢城-幕藩体制を象徴した堅城

金沢城

 加賀百二十万石。最大の禄高を誇る大名の居城であれば、江戸城や大坂城の次に壮大な城であるべきところ、熊本城や名古屋城よりも迫力に欠ける。
 前田家は、大名としての威厳を保ちながらも、幕府を刺激しない程度に金沢城を仕上げた。
藩内に向けては、陶芸工芸を始めとした産業の育成に力を入れて、藩外に向けては目立たない藩としてふるまった。そのような存在として金沢城をみると、その特性や本質が理解できる。
 
幕藩体制を象徴した堅城 
 金沢城は、幕藩体制という複雑かつ暖昧な政治の仕組みを象徴する存在とみなすと、その本質や特性を理解しやすい。私はどちらかというと、幕藩体制という、小難しい歴史用語を文中に利用するのが嫌いなタイプなのだが、金沢城の歴史的背景を説明するには案外としっくりくるため、冒頭に登場させてみた。 
 まずは、大名のなかでも最大の禄高を誇る「加賀百二十万石」の居城として成長する過程を述べながら、金沢城がいかに幕藩体制を象徴する存在だったのかを解き明かしてみたい。
 金沢城は、天正八年(一五八○)、佐久間盛政が、主君の織田信長から加賀一帯の統沿を委ねられ、金沢御坊の跡地に築城したことが起源である。 戦国時代の加賀は、織田勢が侵攻するまで、「百姓の持ちたるような国」と称され、一向宗の門徒によって支 配されていた。金沢御坊は、寺院というよりも、城と同一規模の防御スペースが築かれ、周辺地域を支配するための一大拠点としての役削を果たしていた。

 のちに豊臣秀吉が石山本願寺の跡地に大坂城を築いたように、盛政は金沢御坊の跡地に築城。あえて同一のポイントに築城することにより、一向一揆による統治が終焉し、それまで一向一揆の勢力が強かった北陸の地が同政権による強力な支配体制内に組み込まれたことを強調しようとしたのだ。