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金沢城-壮大な天守と石垣の創造

 壮大な天守と石垣の創造


 天正十一年の賎ヶ岳の戦では、能登七尾城主の前田利家は、敗北した柴川勝家方に属した。にもかかわらず、利家は勝巻の羽柴秀吉に降伏を誓ったのち、勝家の本拠である北 庄城を攻め落とし、金沢城を接収した。
功績を認められ、本領安堵を認められた。のみならず、金沢城を本拠とし、加賀北半国を加増されたのだった。


 翌年に小牧合戦が勃発すると、隣国越中の佐々成政が反羽柴方に属し臨戦状態に陥った。天正一四年には秀行による越中攻めにより、成政が降伏すると、利家は、秀吉より越中一国を与えられた。

 利家は、成政との抗争が続くなかも、金沢築城を進め、天正一五年には五層の天守を完成させている。このころ、五層の天守は秀吉の本拠である大坂城以外には存在したという記録はなく、利家は豊臣政権においてナンバー2に匹敵する座にあることを、壮大な天守建設によって誇示したといえよう。

 文禄元年、利家は朝鮮出兵で肥前名護屋に出陣するのだが、留守にあたる嫡男の利長に対し、石垣の造営を命じている。通常であれば、基礎の石垣を完成させてから、天守などの建物を建築するという流れのところ、利家は、もっとも目立つ犬守を完成させてから、本丸周辺の石垣を築くことによって城としての壮大さを演出しようとしたと想定できる。