HOME > 金沢城-幕藩体制を象徴した堅城

迫力にかける巨城


 初代家康をはじめ、二代秀忠や、三代家光あたりまで、歴代の徳川将軍は、できうれば、前川家をはじめ、仙台の伊達、福岡の黒川など、有力外様大名を取り潰し、日本全国を親藩・譜代大名の領地か、幕府の直轄領にしたかった。
 だが、前田家の一二代藩主の利常がわざと鼻毛を伸ばして江戸城に登り、間抜けな振りをしたという伝説にも示されるように、有力外様大名は、改易される口実を与えないことにより、その過半は生き残りに成功。四代将軍家綱の代になると、幕府も改易政策を緩和しながら、幕府と諸大名が共存する幕藩体制は安定期を迎える。
 有力外様大名のなかでも、仙台城と福岡城には天守がなく、幕府への遠慮が生き残りへと導いたのかしれない。その一方では、これみよがしの巨大天守を築いた熊本城主の加藤家が取り潰されたのは、幕府への遠慮が足りなかったともいえよう。
 幕藩体制において、大名が取り漬されるか否かは、武家諸法度を一応の基準としながらも、幕府によるさじ加減によるところが大きい。また、諸大名の居城への制約については、改修工事の事前届け出など、成文化された部分もあれば、幕府への遠慮から城を巨大化しないという不文律も存在する。



 金沢城は、最大の禄高を誇る大名の居城であれば、江戸城や大坂城の次に壮大な城であるべきところ、熊本城や名古屋城よりも迫力に欠ける。前田家は、大名としての威厳を保ちながらも、幕府を刺激しない程度に金沢城を仕上げた。そのような存在として金沢城をとらえてみると、その特性や本質が理解できよう。