HOME > 金沢城-幕藩体制を象徴した堅城

再建されなかった五層天守


 慶長七年(一六○一一)、前旧家自慢の天守が落雷によって焼失。三年前には利家が病没し、その後の天下分け目の関ヶ原へと続く一連の流れの中で、前田家を相続した利長は徳川家康への服従の道を選択した。
 天守の焼失は、豊臣から徳川家への鞍替えを象徴する出来事だともいえる。
 翌年には、天守跡地に三層櫓を建設して天守の代用とした。関ヶ原合戦から大坂の陣が勃発するまで、日本全国は雨後の竹の子のように天守が建設されて時代であり、最大の禄高を誇る前田家の本拠である金沢城に天守が建設されなかったのは例外ともいえる。



 当主の利長は、幕府への「遠慮」から天守を再建しなかったとされる。壮大な天守を建設するということは、自身の城が壮大であることをアピールすることを意味し、徳川将軍家を中心とする体制に服従しないという疑念を抱かれかねなかった。
 利長は、徳川への従属を決意して以来、前川家の存続を最優先課題とした。
 最大の大名でありながら、幕府の改易政策に対処するため、前川家が金沢城の天守を再建しないという流れは、幕府と諸大名が共存する幕藩体制を象徴する事実だと思う